夢を見た。
懐かしくて、暖かい夢。
皆一緒だった頃の、平和だった時。
光を、失う前の夢。
思いを伝える術を、失う前の、夢。
外はパラパラと雨が降り始めていた。
開けていた窓から湿った空気が風とともに入り込んでくる。
その風に煩わしそうに眉を潜めて、ルックは窓辺へより開けられていたそれを閉めた。
その際ふいに視線を外に向けると、庭先で傘もささずに佇み空を見上げる少女の姿を見つけ僅かに目を見張ると踵を返した。
室内が仄かな光に満たされる。それが消えたとき、同時にルックの姿も部屋の中から消えていた。
雨は冷たくて心地よい。
何もかもを洗い流してくれる。
流れた涙さえ、わからぬように。
そうして流れた血すら、すべて消し去って地面に染み込ませる。
今空はどんな色をしているのだろう。どんな表情でないてるのだろう。
光を失ったこの目ではそれを捉える事は出来ないけれど、なんとなく想像することができる。
人を哀れんで、泣いているのだ。
無意味な戦を繰り返し、血を流しつづける愚かな人間を。
ふっと唇を歪めると、隣で不自然に巻き起こる風を感じた。
「何やってるんだよ、君は・・・・・・」
聞こえてきた声に、は瞳を開いてそちらを見遣った。
焦点の合わない瞳が、ルックを捉えるように動いて素通りしていく。
音を成さない言葉が唇から漏れた。
『ルック?』
ルックは頷きかけて、気付いたように動作を言葉に代える。
「そうだよ」
溜息とともに言葉を吐き出して、の手を取った。
細く白い指は氷のように冷たく凍えていた。心なしか指先が赤くなっている。ただでさえ寒い冬空の下、さらには降り出した雨の中に立っていたのだ。無理もない。
暖めるように両手で握り締めてやると、が顔をほころばせた。
『大丈夫だよ。ルック。ルックの手が冷たくなっちゃうよ』
ゆっくり口を動かして言葉を紡ぐ。音にはならないそれらだが、彼女が自分の言葉を伝えようと一言一言しっかり唇を動かしてくれるので、読み取るのはたやすい。
「全く。部屋行くよ」
確認を取るように言うと、は静かに頷いた。
夢の中では幸せだった。
周りには、優しい家族がいて。
隣には、恋人が居た。
幸せだった。
ずっと、続くと思ってた。
でも。壊され、奪われた。
壊されたのは、幸せと、暖かな家。住んでいた町。
奪われたのは、家族と恋人。光と、声。
焼け爛れた戦場後地で、ボロボロの姿で居た所を拾われた。
ずっと、昔。
そう、ずっと・・・・・・。
覚えていないほどに、遠い過去の。
これは封じられていた、記憶。
雨の日には蘇える。
痛いほどに悲しく辛い、思い出。
「いつもそうだよね」
ルックの声に、は僅かに顔を持ち上げた。
直ぐ目の前にルックの気配を感じる。そのままじゃ風邪を引くと、濡れた髪を拭かれているのだ。
『何が?』
僅かに首を傾げて訊ね返す意志を伝えると、ルックが手を止めてかがむようにの顔を見た。もちろん、にそれは見えないが極間近に居るのだと、気配と風の香りで感じ取る事ができる。
「雨の日になると、いつもは同じことを繰り返す。昔から、ずっと」
雨降りの日には決まって傘も差さずに外へと出て、見えない瞳で空を見上げる。ずぶぬれになることも厭わず。ただ只管に、そうして時が流行くのを待つ。雨の日が続くと、その行動は眠りへと変換されるのだ。
ルックの言葉に、は苦笑を浮かべた。
『思い出すんだもの』
何を、とは言わない。
ルックも問わない。それは一度昔、聞いているから。
自分よりずっと年上の彼女が、長い時間をかけてその話を語ったときだけは幼い子供のように泣きじゃくっていたことをルックは覚えていた。
今尚それは鮮明に、記憶に焼きついている。
泣き顔を見たくないから。だから同じ質問を繰り返す事はしまいと、ルックは幼心に思ったのだ。
彼女の頭に載せていた手がすべりおちて、細い肩へと触れた。細すぎるほどに、頼りないの肩にかかった金色の髪を背に払ってやる。
冷たい手で辿るように頬に触れられて、ルックは気付かぬうちに伏せていた顔を上げた。
焦点の合わぬ濃い青の瞳を見る。
彼女の瞳が閉じられた。口付けを、求められているのだと気付いて静かにの唇に自分のそれを重ね合わせる。
掠めるように軽い口付けに、は僅かに頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
『好きよ、ルック』
は思う。
今の自分は幸せだ、と。
遠い昔。幸せは失われた。
けれど、長いときを経て、再び手に入れた。
光も声も、元には戻らないけれど。
今は確かに、幸せだといえる。
彼の傍に、いられるから。
手を伸ばして彼を抱きしめた。自分ほどではないが、微かに湿ったルックの柔らかに髪に触れる。
ルックと初めてであったときから、の瞳に映るのは暗闇の世界だけだった。
だからはルックの髪の色も、瞳の色も知らない。
『見たいな』
吐息のように零れ落ちたその言葉は、ルックの耳に届く事はなく。
『もう一度、世界を・・・・・・貴方を』
願う声は、しっとりと降り続ける雨音に掻き消されていった。