切な系100題「063:薄氷」

 その細い腕は、無数の傷痕だらけだった。
 自虐のように自分を傷つける。
 そうすることでしか自分を守る術をもっていなかったから。
 傷つけて、壊して。元に戻せないくらいぐちゃぐちゃにして安堵するのだと。
 その心理は理解出来ないものだったけど。


「またやったの?」
 鼻を突く血の匂いに眉を潜める。あきれたような溜息とともに吐き出された言葉は、以前に何度も口にしたものだった。
 部屋の主である少女は細い腕から真っ赤な血を滴らせて、まるで痛みを感じていないかのように艶やかに微笑む。彼女の傍らには血のついたまま鈍く光る懐剣が抜き身のまま放り投げられていた。
 パタリパタリと音を立て、赤い雫は床に落ち無数の赤い花を咲かせる。
 伸ばした腕には縦に大きく、裂傷が走っていた。
 反対の手にはぐるぐると白い包帯が幾重にも巻かれている。それは昨日、一昨日ルックが彼女に施したものだった。
 近づいてくるルックを見上げたままは微笑する。
 ルックは彼女の横にしゃがみこむと血のあふれ出る腕を掴んだ。

 傷つけて、赤い血が溢れ出し流れる様を見ていると、自分は生きてる。
 そう感じる事が出来て安心するのだとは言う。
 何もしていないと自分の存在を感じられず。世界に取り残されたように感じる。死んでしまったようで怖いのだと。

「いつかホントに死ぬよ?」
 傷口に向かって手をかざした。淡い光がの腕を包み込み、徐々に傷口を塞いでいく。ある程度まで回復させると、止めた。
 完全に治さないのは、魔術ばかりに頼っているといつか人が持つ自然治癒力が失われてしまうから。
「死ぬほど深くは切らないわ」
 薄く跡の残る腕を見つめて、は事も無げにさらりと言う。
「よく言う。前に動脈まで傷つけて、失血死しかけたのは誰だよ」
「そうだった? そんな昔の事忘れたわ」
 肩をすくめて笑うの顔色は、驚く程に白く。どちらかといえば青白い。それは常に自虐行為に及ぶ彼女が血を流しつづけるが故だった。
 ルックから視線を逸らし、床に投げ捨ててあった懐剣に手を伸ばす。
 の手がそれに触れる寸前、ルックはすっと懐剣を掴んだ。
 不満げに見上げるの前で鞘に収めて、手渡す。触れ合った指先は、冷たい。
「気をつけなよ」
 決してこんなことはもうやめろと言わない自分が可笑しくてならなかった。
 ほんとなら止めさせればいい、こんなことは。
 けれどの場合、やめさせないんじゃない。止めさせる事が出来ないのだ。
 自分を傷つけることで己の精神を保っている彼女だから。常に危うい、薄氷の上にたっている状態の。その彼女からこれを奪ってしまったら、たちまち心のバランスの崩して、それこそ本当に死の道へと走るだろう。
 だから止めない。
 ただ気をつけろ、とだけ言う。
 それは自分がを失う事を恐れているから。
「そうね。気をつけるわ」
 いとおしそうに懐剣を胸に抱くの頬に手を添えて、ルックは微かに笑った。

 いつか。
 この少女の魂が救われるときがくればいい。
 傷つける事意外で自身の存在を確かめる術を得て、そうしてただ純粋に生を喜ぶことが。

 の傷痕を見つめて、願うようにルックは思った。