切な系100題「024:スケッチ」

すり抜けるように本の間から零れ落ちた一枚の絵画。拾い上げて眺めてみれば、白と黒の二色で描かれたそれは、今と少しも変わらぬ自分の姿だった。まるで鏡に映したかのように寸分の違いも無いそれは間違いなく人の手で描かれたものだ。懐かしく脳裏を過ぎるのは、真剣に自分を見つめていた黒い瞳と屈託の無い笑顔。
「ああ、懐かしいな…」
思わず呟きだされる言葉は描いた人間に対するものであって、間違っても自分自身に向けたものではない。この絵が描かれたのはいつだったか。そうあれは…今よりずっと、遠い過去。
幾年もの歳月を経てなお、少しも傷むことなく色あせることなく残るこの絵は、一人の少女が描いたものだった。
今になって改めて思う。
彼女は…は不思議な少女だった。

***

さらさらと手を動かすたびに、白い紙上に描き出されていく幾本もの黒い線。ところどころ強弱を変えて、角度を変えて。陰影をつけながら徐々に描き出されていく人物画。目の前のモデルをじっと観察しながら、手元を動かす。同じ動作を何度も繰り返し、時々首が凝るのが左右に倒して凝りを解しては、また没頭する。

パタンと本を閉じる音に顔を上げれば、勝手にモデルにしていた彼が紫の瞳でじっとを見ていた。その表情と視線にはほんの少し呆れが含まれていて、まあよくもあきもせずに毎日、とでも言いたそうだ。だがそれを言うならば、シメオンも同じ事で毎日毎日飽きもせずに部屋に閉じこもっては積み上げられた本を読みふけっている。そういうところで言うならば二人は似たもの同士、というところなのだが悲しいかな、それを指摘する人間がこの場には存在しなかった。
はシメオンの視線に構うことなく再び視線を下げてサラサラとペンを走らせるとやがて手を止めた。じっとスケッチブックを眺めやがて納得したように一つ頷く。
顔を上げてにっこり笑うとシメオンの隣に立ち、今まさに描き上がったそれを彼に見せた。もともとは真っ白だった画用紙に、驚くほど緻密で精細な人物画が描かれていた。ペン一本でよくもここまで…と感嘆の息が漏れてしまうほどだ。
紫の瞳を軽く見開いて、よく描けている、と褒めてやるとは頬を染めて嬉しそうに笑みを浮かべた。

黒い髪と黒い瞳を持つ娘、は半月ほど前シメオンが拾った少女だった。
突然空から降ってきたのだ。高い建物の上や、崖の上から落ちてきたわけではない。文字通りふってきた。何も無い場所から忽然と。
さすがのシメオンもこれには驚いた。長い時を生きていればこそ、変わった出来事には幾つも遭遇してきた。だが、これは…。突然少女が降って来るなどと言う経験は初めてのことだった。というよりもそうそうあって堪るものではない。
背に掛かるほどの艶やかな黒髪を大地に散らして、瞳を閉じたまま四肢を投げ出しぐったりとして動かない。どんな人物なのか。何故突然空から降ってきたのか。全てが謎であったが、かといってこのまま放っておけるはずもなく、眉間によった皺を無理やり元に戻し中々に苦労し連れ帰った。看病をし目を覚ました彼女に幾つかの問いをしてみて分かったことといえば、なんと彼女は言葉を話せないらしいということだけだった。
しかもシメオンを見て、ぎょっとした顔をしたかと思えば慌てたように外に飛び出し、きょろきょろと辺りを見渡して呆気にとられたような顔をした。追いかけたシメオンに気付くとどこか途方にくれたような瞳で彼を見て、ほろほろと泣き出したのだ。ちなみにそうったことが大変苦手なシメオンは彼女を宥め泣き止ませるのにとてつもない苦労をした。
なんとか泣き止んだ彼女だったが、依然として謎は何一つ解けることはなく、それどころかどんどん増えていっているようにも思えた。しかしだからといってそのまま追い出すわけにも行かず、まあ一人増えたところで困ることもなかろうと家に住まわせることになったのだ。
初めはシメオンの申し出に飛んでいきそうなほど激しく首を横に振っていた彼女も、やがて行くあても無いことに思い当たり素直に受け入れたのだった。

がともに住み初めてしばらくたった頃。シメオンは古紙に書かれていた小さな絵を見つけた。人の横顔。それは紛れも無い、シメオンの横顔だった。落書きにしてはよく描けている。その古紙は先日シメオンが物を書いて失敗したもので、あとで捨てようと適当においておいたものだった。その時にはこんな絵はなかったはずだが、いつの間に書かれたのだろう。誰が? シメオンにはわざわざ自分の顔を書くなどという趣味はなかったし、だとすれば思い当たるのは一人しかいなかった。試しに訊ねてみれば、は顔を真っ青にして謝り始めた。どうやら大切な文書に落書きをしてしいそれを咎められたのだと勘違いしたらしい。実際言葉は話せないから、ぺこぺこと申し訳なさそうに何度も頭を下げるだけだったのだが。謝ってほしいわけではなく、ただ確認のために聞いただけだったのでシメオンはやんわりとそれを止めた。
「怒っているわけではないよ。ただよく描けているから、聞いただけだ」
そういえば、はどこかほっとした顔をして頷いた。

の描いた絵をじっと眺めてつくづくと思う。これだけ絵の才能があるのに、あんな紙切れにしか描かないのは勿体無い。もっと大きな紙に描かせればそれこそ見事な絵画となるだろうに。思い立ったシメオンは翌日は道具部屋と赴き、綴りになっている画用紙を買ってに与えた。よほど嬉しかったらしくは受け取るとぎゅっと抱きしめ華綻ぶように笑った。予想通りというかは絵を描くことが好きであるようだ。
遠慮して言えなかったのだろう。居候としての自覚があったから、使い古した紙のはしに描いて自分を満足させていたに違いない。そもそも口の利けない彼女が自分の望みや意志を巧く伝える術を持っていないのだということに、もっと早く気付いてやればよかったとシメオンは思った。

彼女が書くのは人物画のみではなかった。家の中でシメオンの絵を描いていることの方が割合的には多かったけれど、気が向けば外に出て広がる景色をデッサンするときもあった。それは建物であったり、穏やかに凪ぐ海であったり、空を舞う鳥であったり様々だ。中にはシメオンの知らないものもあった。どこか町並みのようだが、見たこともない高い建物が連なり人々が行き交う……およそシメオンには想像もできない風景。実在するものなのか、彼女の空想が描き出したものなのか。訊ねてみたことはないけれど、おそらく後者なのだろう。エイシャは時折自身が描き出したその「不思議な絵」を眺めて、どこか懐かしそうな瞳をすることがあった。
ただ思い返してみれば、は、風景画や人物画…過ぎ行く人々やシメオンの絵をよく描いてはいたが、自身の絵は一枚も描いたことがなかった。

***

ふと、絵に視線を通していたシメオンの目が穏やかに笑む。そっと絵を手でなぞれば、ざらりとした紙の感触が指先に伝わった。
話しかければ瞳をむけ、絵を褒めれば屈託無く嬉しそうに笑っていた彼女は……は、もういない。
長い時を生きる自分とは違い、人とはとても脆く儚い。あっという間に老いて死んでしまう。どんなに心を寄せていても、愛しく大切に思っていても。
身を置く時間の流れが違いすぎて、ほんの瞬きの間にこの手から失われてしまうのだ。
けれど、は。別れるには少し早すぎたように思う。
あんなにも早くに別れが訪れてしまうと知っていたならば、もう二度と彼女の微笑を見ることが出来ないのなら、せめて彼女を覚えていられるように彼女自身の絵を残しておいて貰えばよかった。自分の絵姿などではなく、自身を描いたものを。触れられず、話しかけても笑みが返ることはないし、温もりも無いけれど。ただ見つめることだけは出来るから。
彼女が死んで、五十余年の時が流れた。思い出すの面影、輪郭が少しずつおぼろげになっていくのを感じる。いつかは、忘れてしまう時がくるのだろうか。ずっと覚えているためには、自分の生は長すぎた。どれだけ生きても終りは見えず、思いを寄せていた相手を失いそれでも相手を思い続けることはただ只管に心に痛みを伴う。痛みを癒すためには忘れてしまうことが最善なのだろうけれど。
「…のぅ、。私がお前を忘れてしまったら…」
お前は怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。だけどきっと最期には笑って許してくれるのだろう。はそういう娘だったから。
忘れ去ることは出来ないし、忘れたいとも思わない。だけど忘れられない暖かな記憶。
懐かしく切なさを呼び起こす名を口に載せて、シメオンは静かに瞳を閉じた。







切な系100題より「スケッチ」
思い出語りというか。昔を思い懐かしむお話というか。
何か、こう…初めに書こうとしていたものとは何かが…違う。
しかもなんか、シメオン様が救われない…。おおぅ。