遠くから見ているだけで満足、なんてそんなことあるはずない。出来たらそばに近づきたいし、もっとできたら話だってしてみたい。だけど私は弱虫で、だから遠くから見ているだけ。
子供たちのはしゃぐ声が耳に届き、撫で付ける風がふんわりとスカートの裾を揺らす。大地に降り注ぐ暖かな光に空を見上げると、どこまでも青くさえわたる空が広がっている。全く持って平穏極まりないここはデュナンにある同盟軍本拠地。平穏極まりない、といっても現在進行形で王国軍とは交戦状態にあるのだが。
現在私はこの同盟軍にお世話になっている。そうなった経緯はというと、私はもともとリューベの村で両親や妹たちと住んでいたのだ。だが王国軍が攻めてきた折村人同様家族を惨殺され家を焼かれ帰る場所を失った。生き残ったのはただ運が良かった、としかいいようがない。たまたま裏の山に薪を拾いに行っている最中で、村の騒ぎに気付いていなかったのだ。戻ってみれば村は見るも無残な姿に変わり果てていて、家を家族を失い悲しみにくれることも現状を受け入れることも出来ずただ呆然としていた私を、その時リューベを訪れていた現在の同盟軍軍主様が拾ってくださったのだ。もちろんその時の彼はまだ軍主という立場ではなかったしそうなるなんて誰も思って居なかったのだけれど。
それから…まあ色々あって、一度傭兵隊の砦に身を寄せた私はすぐにミューズへと移ることになったがそのミューズもすぐに王国軍の手に落ちてしまったのだ。王国軍がやってくるより少し前に同盟軍の噂を聞いて私はミューズを出ていたために助かった。またもやこれも運が良かったとしか言えない。つくづく自分の運の強さと、いるのかどうか分からない神に感謝した。
同盟軍本拠地に来て驚いたことがあった。ここに私が密やかに思いを寄せていた人がいたのだ。その人は森の狩人で、とても心のやさしい人。以前森の中で獣に襲われそうになっていたところを助けてもらったことがきっかけで、私は彼に好意を抱くようになった。会話らしい会話なんてほとんどしたことはない。実のところ傭兵隊の砦にいた時にも彼はいたらしいのだが、その時私は家や家族を失い村の人たちを殺された悲しみや怒りや絶望……そういったものに押しつぶされそうになっていて周りなんてほとんど見えていなかった。自分を保つので精一杯だったのだ。
なんとか立ち直れたのは、周りの人の温かさや励ましがあってこそ。
私が想いを寄せる彼はいつも愛犬のシロと一緒に居た。愛犬といっても実際は狼だから…愛狼? だろうか。まあそんなことはどうでもいい。シロは久しぶりに会う私のことを覚えていてくれた。相変わらず優しい瞳をしていて、私が頭を撫でると甘えるように鼻面を押し付けてきた。
「久しぶりだね、シロ」
私の声に、シロは一度応えるように鼻を鳴らした。
同盟軍へ来てから、特別親しい友人もいなかった私はシロの元を訪れるのが日課になっていた。一日一度はシロの元へ行って、他愛ない話をして(といっても相手は言葉を話せないから、ほとんど独り言だ)帰っていく。たいてい、彼が隣にいない時間を選んできた。理由としては、彼に会うのがただ恥ずかしかったからだ。
ここへ来てしばらくたった頃いつのものようにシロの元を訪れようとして、私は慌てて足を止めた。この時間はたいてい軍議でいないはずの彼が居た。シロの隣に座って弓の手入れをしている。少し俯いたその表情は見慣れないもので、綺麗だなと思わず見とれてしまった。けれどすぐにはっと我に返って、今日は帰ろうと踵を返そうとした直前顔を上げたシロと目が合った。するとどうしたことだろう。ゆっくりと立ち上がったシロは迷いの無い足取りで私に向かって真っ直ぐに歩いてきたではないか。なんだなんだとシロの動向を見守っていた私の元まで寄ると服の裾を咥えそのまま引っ張り始めた。ずるずるシロに連れて行かれたのはシロの定位置で、つまるところは彼、キニスンがいるところでもある。彼はシロに服を引っ張られ連れてこられる形になっていた私を驚いたように見上げていた。
「シロ? 何してるんだ。ダメじゃないか。ほら、離して」
キニスンに軽く窘められるが、シロは反省したようすもなく寧ろ満足げな表情で私の服を解放するとその場に座り込んで大きく伸びをし、悠々と昼寝を始めた。
どうしよう。とてつもなく気まずい。挨拶をした方が言いのだろうか。戸惑い正直居たたまれない気持ちだった私に彼は大丈夫ですか? と訊ねて僅かに首を傾けた。慌てて少しめくれたスカートの裾を直して頷いた。
「だ、大丈夫です」
「そう、よかった。…あれ、君は…」
前にあったことあるよね? そう聞かれて、私は躊躇いながらも頷いた。彼はしばらく考え込むような素振りを見せて、ああそうだと呟いた。きっとあの日、私がリューベの裏山で彼に助けてもらった日のことに思いあったんだと思う。覚えててくれた。嬉しくて顔が綻んでしまう。
それでも彼が口に出さなかったのは、王国軍に焼かれたリューベのことを知っているからだろう。現に彼は一瞬、痛ましげな目で私を見た。同情されるのはいやだった。何か話題を、と考えて焦って口にした物はなんとも間抜けなものだった。
「あの、私いつもシロと遊ばせて貰ってます…というか、私がシロに構ってもらってる感じなんですけど、って……あれ?」
…一体何が言いたいんだろう私は。可笑しなことを言ってしまった自覚はあった。かといって口に出してしまった言葉をなかったことにも出来ずしどろもどろになる私にキニスンはきょとんとして、それからくすくすと笑った。優しい笑い方だったけど、あまりにもアホな自分と笑われてしまったことに恥ずかしさが込み上げてきて頬が赤くなるのを感じる。思わず俯いてしまった私にキニスンはごめんなさいと、少し申し訳なさそうにだけど変わらず笑みをこぼしながら謝ってくれた。
「そうだ、ずっと立ったままにさせてすみません。よかったら座って下さい」
促されて頷きかけてからどうしようかと考えた。私はずっと立ったままでいても構わないのだけど、きっと彼が気にするだろう。ここは素直に座ったほうがいいのかもしれない。だけどさすがにキニスンの隣に腰を降ろすのは気がひけて、シロを挟んだ反対側に膝を立てて座り込んだ。気付いたシロが一瞬目を開けて私を見るが、すぐに目を閉じてまた眠り始めてしまった。時折耳がヒクヒクと動いているから、きっと私たちの会話を聞いているのだろう。
座ったもののなんとなく落ち着かなくて、膝にまわした手を組んだりはずしたりと意味の無い動作を繰り返す私を余所に、キニスンがシロを撫でながら言った。
「最近なんだかシロの機嫌がいいんです。ずっと不思議に思ってたけど、やっと理由がわかりました。……君がいたからなんですね」
「え…?」
「前に君に会ったとき、シロがとても君のことを気に入っていたみたいなんです」
その言葉に思わず顔を上げてキニスンの方を見ると、彼は私を見て微笑んでいた。一瞬心臓が跳ねて慌てて顔を逸らすと誤魔化すようにシロに手を載せた。ふわふわの毛並みの感触。きっとキニスンが手入れをしているのだろう。柔らかくてさわり心地がいい。君はいいね、いつもキニスンに撫でてもらえて。傍にいられて、羨ましい。心の中で私は呟く。シロは私とキニスンに撫でられていても構う様子も見せず、のばした足にあごを乗せて目を閉じたままだ。
「そういえば君の名前をまだ聞いていませんでした。教えてくれますか?」
「あ、です。・」
「さんですね。僕は…知ってるかも知れないけど、キニスンです」
知っています。だってずっと、あなたを見ていてから。
口に出せず心の中で応えて、頷いた。
「あの…私のことはでいいです」
私が言うと彼はなら僕のこともキニスンでいいですよ、と返して笑顔で頷いてくれた。
それからしばらく他愛も無い話をした。ここへ来るまでに何があったとか。この城に住んでいる人たちのことだとか。ずっと好きだった彼とこんな風に話が出来るなんて夢のようで、私は舞い上がってしまいそうになる気持ちを必死で抑えた。だけど嬉しくてたまらなかった。それもこれも全部シロのお陰だ。
気がつけばすっかり日が暮れてしまっていて、そろそろ部屋に戻らなくてはいけない時間になってしまった。残念だけれど仕方が無い。ちょうど会話が区切れたところで立ち上がり頭を下げて立ち去ろうとした私の手を、キニスンが掴んで引き止めた。
触れた指先にどきりとする。
「待ってください、」
「はい…?」
「あ、ごめんなさい」
驚いて咄嗟につかまれた手に目をやってしまった私に、キニスンは慌てて謝って手を離した。離れて行ってしまった手をほんの少し、名残惜しく見送る。別に嫌がったわけじゃなくて、ただ単に驚いただけだったのだけれど彼は誤解をしてしまったらしい。けれどそれをどう弁解しようかと考えている間に、彼は次の言葉を口にしていた。
「また来てください。シロも喜びますから」
「……っ、はい」
ああ、どうしよう。嬉しい。嬉しすぎて涙が出そうだ。
頷いて、別れの挨拶代わりにシロの頭を撫でると目を開けた彼はぱたんぱたんと二度ほど尻尾を動かした。それはまるでキニスンとこうして話をできた私によかったな、と言ってくれているようだった。
キニスンに向かってもう一度頭を下げると背を向けて歩き出す。途中一度振り返ると、気付いた彼が笑顔で手を振ってくれて、私も笑みを見せて振り返した。ある程度まで歩いてくると手を胸元に引き寄せて、心臓の上でぐっと握り締めた。ああ、どきどきしてしょうがない。
彼が触れた指先がまるで熱を持ったように熱かった。