切な系100題「遠い記憶」

 それは遠い記憶。

 今はもう忘れてしまった遠い日の思い出。

『また逢いましょう?』
『そうだな』
『約束ですよ? 私、待ってますから』
『ああ・・・・・・』


 約束は、果たされないままに。

 十年以上の歳月が過ぎて・・・・・・。


* * *


 太陽が眩しくて、少し汗ばむほどの陽気。
 良い洗濯日和だと、私は気合を入れて腕まくりをした。
 続いた長雨。それに加え四人分の洗濯物は思いのほか多い。色とりどりのそれを籠に入れて、水分を含み重量を増したその重さに耐えるよう、小さな掛け声と共に持ち上げた。
 水場から日当たりのいい庭へ向かおうと踵を返した私の目に、一人の少年の姿が映る。
 柔らかな微笑み。紫かかった瞳が印象的な男の子。
 彼の纏う鮮やかな赤い着衣が風に揺れた。
「あら。どなたかしら・・・ロイの友達?」
 年は離れていたがもしかしたら息子の友達かもしれない。そう思ってたずねた私の言葉に少年は首を振った。
「ロイってあなたの息子さん?」
「ええ、そうよ・・・・・・友達、ではないのね?」
「うん」
 頷いて彼はにこりと微笑んだ。
 まだ幼さを残す面立ちだが、どことなく大人びた印象をもっている。不思議な子だと思った。
 そして、誰かに似ているとも。
 彼の手元に視線を向ければ、きつく巻かれた包帯の存在に気が付く。それは遠い昔に知り合った少年を思い起こさせた。
 腕に抱えていた洗濯籠を足元に下ろし、二歩少年の方へと歩み寄った。
 何故だろう。彼からはとても懐かしい感じがした。
「・・・・・・どこかで会った事があるかしら?」
「会った事はないけど、あなたのことは知ってる」
「? そう・・・・・・。あなたの名前はなんというの?」

君? 家名は・・・・・・?」
 名前を聞いて何かひっかかるものがあったけれど、生憎と思い出すことができなかった。
 だからもしかして、家名を聞けば何か思い出すかもしれない。
 そう考えた私の問いかけに、けれど彼は静かに首を振った。
「今はもう必要のないものだから・・・・・・」
 立ち入ってはいけない気がしてそれ以上の質問は避けた。
「あ、私の名前・・・・・・」
 名乗ろうとした私を彼は笑顔で制する。紫暗の瞳を細めて僅かに首を傾いだ。
「知ってる。さん、でしょ? ずっと探してたんだ」
「どうして・・・・・・?」
 どうしてと尋ねたのは名前を知っていることに対してではない。
 別段この少年が私の名前を知っていたとしても不思議ではなかった。自分にとって見ず知らずの少年であったとしても、例えば友人知人の知り合いであれば名前くらい知っていることもありえるだろう。
 私が不思議に思ったのは、彼がずっと探していたと言ったこと。
「頼まれごとをしてきたんだ。もう随分前で・・・・・・約束を果たすのに、大分遅くなっちゃったんだけど・・・・・・」
 言いながら少年は衣服のポケットから何かを取り出した。
 包帯の巻かれた右手の掌に握りこまれたそれが日差しにさらされたとき、驚きのあまり声を失った。
「あなたに渡してくれって」
「ど、して・・・・・・」
 太陽の光を弾いて青く輝くそれは、記憶の奥深くに眠っていたもの。そして二度と目にかかることはないだろうと思っていたものだった。
 少し不器用で、無愛想な彼の顔が脳裏の蘇った。
「これは、彼に・・・・・・」
「そう。あなたが昔、テッドに渡した物。そしてテッドに、これを貴方に返すよう僕は頼まれた。それと言伝を。"約束を守れなくて、悪かった" と」
 渡された青い石のペンダントを震える手で握り締めた。
 かつて愛したあの人に、守りとなるよう手渡した、青い石。
「・・・・・・テッドは何故、あなたに?」
「僕とテッドは親友同士だったんだ。掛け替えのない大切な友達だった。けど、四年前の終結した解放戦争。その最中に彼は死んだ。死の間際、僕にこれを託して」
 まだ待っているかもしれない。だからもう待たなくていい。そして―――約束を守れなくて、すまなかったと。
 の言葉に私は声を失った。
 テッドが死んでいたなどという事実、私は今初めて聞いたことで。
 ああ、だからかと。同時に納得もした。
 だから、彼とは会えなかったのか、と。
「そうだったの・・・・・・。ありがとう。君。これを私に届けてくれて。彼の言葉を伝えてくれて。彼の・・・・・・テッドの死を伝えてくれて」
「いいんだ・・・・・・ホントはもっと早く、あなたに伝えたかったんだけど」
 居場所がわからなくて。
 彼はそう呟いた。
 それもそうだろう。あれから私は元住んでいた場所から遠い町へと引っ越したし、別の男(ひと)と一緒になった。
 住んでいた所も名前も変わってしまった私を探し出すのは困難だったに違いない。
 それでも私を見つけ出してくれたのは、彼がテッドと親友同士という間柄だったからなのだろうか。
 それとも・・・・・・。
「じゃあ僕はこれで」
 踵を返して歩き出したの背に会釈して、私は音を出さずに呟いた。
「ありがとう・・・・・・トランの英雄」



 十余年ぶりに手元に戻ってきたペンダントを胸に下げて、足元の洗濯籠を持ち上げた。
 まだまだ太陽は高い位置にあって、絶好の洗濯日和は続いている。
「さて、やっちゃいましょう」
 気合を入れる声が震えていたことは、きっと誰にも気付かれていない。
 景色が滲んで見えたのは私だけが知っている事。
 青い石のペンダントはきっと全てを見ていたのだろうけれど。



 お日様は、あったかくて心地よくて。
 吹く風は気持ちよくて。
 だけどすごく。どうしようもなく、心だけは冷えていて・・・・・・瞼の裏は熱かった。