とある冬の日の話である。
久々にといっても二月ほどぶりであるのだが、本田の家を訪れていたは早朝目が覚めるのと同時に部屋を飛び出した。まだ鶏でさえ夢の縁をまどろんでいるだろう刻限である。
客間(既に専用となりつつある部屋である)から庭に面した居間へとあわただしく走っていくとすぱーんと障子戸を開け放ち、庭一面を埋め尽くす白銀を目にすると彼女はテンションマックスで叫んだ。
「ゆっきだー!」
直後、後頭部をスパンと小気味よく叩かれて前のめりになる。痛む頭部に手を当てながら涙目で振り返れば、スリッパ(多分)を握り締めた本田が至極迷惑そうな面持ちで立っていた。
「早朝から大声で叫ぶのはお止めなさい。ご近所迷惑でしょう」
「いや、ちょ、本田さんや。今それで叩いた? 叩いたよね? 乙女の頭をよりによって、しかもそれ便所スリッパじゃ?」
「仮にも女性が便所とか言うんじゃありません。これはお客様用の履物です」
律儀にも訂正を入れる本田であるが、手にしたものが履物であることは間違いないらしい。
「大体乙女と自称されるのなら、まずはご自身を省みてからにして下さいな。腰紐、解け掛けてますよ」
の抗議をさらりと無視し一息に言った本田は踵を返しながら、さて朝食の支度をしませんと、と言い残して勝手へと消えた。一人残されたはしばし呆然としてから足元に擦り寄ってきたぽちを撫で。
「相変わらずお前のご主人おっかないねぇ。しかも仮にもって…正真正銘女だよ、私は」
不満たらたらに呟くと本田に指摘された通り自身を見下ろして、あっちゃと声を上げた。客人であるのためにと用意された桜色の寝巻きは腰紐が緩み袷がずれて、可愛らしい下着がちらりと顔を覗かせていた。なるほどこれは本田でなくても指摘したくなるだろうなと思いつつ、しかしそれなりになんと言うか…あられもない格好であるというのに彼が顔色一つ変えなかったことを思い出し、少々不満げに頬を膨らますである。
「私色気ないのかなぁ…」
仮にも。例え回りからそうは見られなくても扱いが酷くても恋人であるというのに。
かといって朝から襲われても迷惑であるし、そんな本田も想像つかないが。
溜息一つ。寝乱れた浴衣を直すべく腰紐を解くと、ぽちの散歩を頼みに顔を出した本田と目が合う。お互い固まりしばしの沈黙。
やべとが思う頃には本田の硬直も溶けて、はしたないと烈火のごとく怒られた。色々と理不尽なものを感じたであるが、反論すると後が怖いし彼の機嫌を損ねると朝食抜きの刑にされてしまうので、言いたいことはすべて喉の奥に引っ込めて、素直に謝ると客間へと逃げた。
***
ぽちの手綱を握って雪の降り積もる外界へ足を踏み出すと、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。はらり、はらり。空からは止まない雪が花びらのように舞っている。
「綺麗だねぇ、ぽち君」
同意するようにぽちが鳴く。人気のない通りにぽちの鳴き声は静かに木霊した。
雪の降る日の早朝は静かだ。正確な年は自身でさえ覚えてないが、下手をすれば本田と同じかそれ以上の時を生きているも比較的朝が早い。本人は認めようとしないが、一言で言えば年寄りなのである。そんなは早朝の散歩もよくしているのでいつもとは感じる風や空気の違いに心が浮き立ち雪道を歩く足取りはどこか軽やかであった。
ぽちを引きつれ途中出逢った、今ではもうすっかり顔なじみのご近所さんに挨拶をし、果物やら野菜やらのおすそ分けを貰いながらご近所一周の散歩を終えると本田邸へと戻る。それが本田の家へ遊びに来ている時のの日課だ。
「たっだいまー!」
「お帰りなさい。お疲れ様です」
戸を開ける音との帰宅を告げる声を聞きつけた割烹着姿の本田が奥から姿を現してねぎらいの言葉を掛けてくれた。立場は逆であるが、新婚夫婦のようである。
「これ斜向かいの奥さんから。こっちは角のおばあちゃんから頂いたよ」
「ああ、助かりますねぇ。あとでお礼に伺わなくては」
食材を受け取る本田はほくほくと嬉しそうだ。
「もうすぐ朝食の支度が整いますからね。手洗いうがいをしっかりしてから、居間へどうぞ」
何かもう旅館の女将とか母親のような雰囲気の本田には了解と頷いて、まずはぽちの足を拭くべく手ぬぐいを取りに邸の奥へと向かった。
ぽちの足を綺麗にして手洗い嗽を済ませたが居間へ行くと、出来立てほやほや湯気を立てる朝食が用意されていた。
「わー、さすが本田。美味しそう!」
嬉々として席に着く。準備を終えた本田も向かいに腰を下ろし二人そろって手を合わせる。長年繰り返されてきた光景だ。
立場上常から一緒にはいられないけれど、たまにこうして二人きりで過ごす時間がはとても好きだった。
美味しい料理に舌鼓を打ちながら黙々と食事を続けていたは開けられた障子戸の向こう側、白く染まる庭に視線を向け、これだけ積もっていたら鎌倉や雪ダルマも容易に作れそうだなどと考える。
「一晩でずいぶん積もったね、雪」
「そうですね。雪かきが大変そうです。後で手伝ってくださいね、」
「それは良いけど、風情もへったくれもないわね…。雪嫌いだっけ?」
「いいえ。嫌いではないですよ。見ている分には綺麗ですし…赴きもありますからね」
「ふーん。あ、ねえねえ本田」
「なんですか?」
「折角だしさ、雪合戦しようよ」
「いやですよ。腰痛もちの爺に何させるんですか、あなた。私ももう若くないんですから」
「それは暗にお前も婆だって言ってるかい? 引きこもってばっかだと体なまるよ」
「ではお一人でどうぞ。私はぽち君と観戦させて頂きます」
「無茶苦茶だなおい。一人でどうやって雪合戦しろっつーのよ。たま投げかよ」
「ああ、いいですねぇ。頑張ってください、たま投げ」
「本田の意地悪ー!!」
だしだしとちゃぶ台を叩いて抗議する。全く持って昔からつれないんだからこの爺は!
やろうやろうとなおもしつこく食いつくに、最初は無視を決め込んでいた本田も終いには折れて、少しだけですよと言えば彼女は幼子のように目を輝かせた。やれやれと溜息をつく本田であるが、彼の表情を見る限りまんざらではなさそうだ。彼は彼なりに、共に過ごせる時間を大切にしようとしてくれているのだ。
「全くはいつまでたっても子供なんですから。風邪引かないようにちゃんと着込んで下さいね」
「わかってるよー。でもあんまり着込むと動きにk「何か仰いました?」いえなにも」
とても良い笑顔で聞き返してくる本田にはふるふると首を振る。笑顔なのに怖いのは何故なんだろうなぁと思いながらも、食後の雪合戦に思いを馳せて心を浮き立たせるなのであった。
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緩い感じの話が…書きたかった…のです(もごもご)
H24.01.10