春霞

 蕾が綻びはじめましたね。もうすぐ桜が咲きますよ。満開になったらお花見に行きましょう。ここでも見られますが折角ですから少し足を伸ばしてみるのもいいですね。お弁当にはあなたの好物を沢山入れましょうか。夏になったら花火があがりますから、あなたによく似合う愛染の浴衣を着て夏祭りにも行きましょう。秋には紅葉狩りへ。渓谷が紅く色付く様は見事なものですよ。見たことはありますか? 冬には雪が積もったら鎌倉を作って、鍋をしましょうか。雪兎や雪だるまも作りましょう。他国の方々を招いて雪合戦もいいかもしれませんね。。これからの季節も沢山楽しみがありますよ。だから早くよくなって下さいね。


 穏やかにつむがれる言葉に愛しさと、泣きたくなるほどの切なさを感じる。桜を見て、花火を見て、浴衣を着て祭りに行って(菊様と初めて祭りに行った時、あまりの人の多さに逸れてしまい菊様に大変な心配をかけてしまいました)、紅葉狩りに行って(紅葉を見ると赤ん坊の掌を思い出します。あなたの子を生んで差し上げたかった)、鎌倉を作って雪合戦をする(他国の方々はきっととても喜ばれるでしょう。菊様からお招きすることはあまりないですからね)年の瀬を迎えて、菊様と新年を共に祝う。出来うるならばその全て叶えたい。思い出を菊様と共有して行きたい、けれど。綻びはじめた桜が見事に花開き、美しい吹雪を見せる頃。恐らく私はもうこの世にいないのでしょう。
 夏の頃には、私は土に埋もれて白い骸となって世界の…貴方の一部となっている。


 四季の移り変わりの美しいこの国が好きでした。
 もう一度生まれ変わるなら、この国に、あなたの国に生まれたい。
 神様というものがいるのなら、どうか私の願いをかなえてはくれないでしょうか。
 唯一つのささやかな願い。どうかもう一度、彼の人の側に。


 もたれかかるように菊様の肩に頭を預ける。身動きするのが億劫で、呼吸すらままならない。けれどとても穏やかな心持でいられるのは、愛しい人が側に居てくれるからだろう。
 風が吹くたびさらりと揺れる、艶やかな黒髪が視界にちらちらち入り込む。女の私などよりもずっと綺麗な黒髪が何時も羨ましかった。病に侵されてからというもの、私の髪は艶を失い美しさとは遠ざかってしまった。指を通せばきしり絡む。だけどそんな私の髪でさえ菊様はうつくしいと言ってくれた。世事だと分かっていても、とても嬉しかった。


 菊様の纏う落ち着いた、けれどほんの少し甘酸っぱい菊花の香がふわりと聞こえて目を細める。愛しい人の纏う、大好きな香り。その香りが届く度、まるであなたに包まれているかのような安堵と幸福を感じていた。知っていましたか? 貴方があちらこちらの世界を渡り歩き邸に居ない間、私は寂しさを紛らわせるためにそっと菊様の香を拝借して貴方の代わりとしていたことを。
 指を絡ませるように手を繋ぎ庭の桜を見つめ、緩やかに過ぎ行き時の流れに身を任せる。抗えないとわかっているから、せめて最期は安らかに過ごしたい。そんな想いで空を見上げる。はらりと音を立てて舞い落ちた可愛らしい薄紅が、春の青空に溶けるようにかすんでいく。ここからではよく見えないけれど、天辺の方はもうすでに開花していたのかもしれない。掌に落ちた花びらが一枚指の隙間をすり抜けて落ちた。菊さまと繋いだ掌からはもう菊さまの温もりを感じ取ることすら出来なくて…。
 すべての感覚が遠い。いよいよなんだろうか。
「菊様」
 思っていた以上に声が出なくて、吐息のようなか細い声で私は続ける。
「ありがとうございました。こんな私の側にいてくださって。こんな私を見放さずにいてくださって。こんな私を愛してくださって。はとても幸せでした」
 と諌めるように菊様が私の名を呼ぶ。
「およしなさい、そのような…まるで、それでは」
 菊様の瞳が揺らいで痛みが走る。そんな悲しいお顔をさせいわけではないのに。ごめんなさい。紅を落とせば見るに耐えない色になっているだろう唇を私は必死に動かして、想いの全てを菊様に伝える。
「菊様。は菊様がとても愛しい」
 短い間だったけれど本当に幸せでした。菊様に拾われて共に暮らすようになって。とても幸福な女です。人より少し寿命は短かったけれどそんなものは然したる問題にならないほど満ち足りていました。
「菊様、は桜になります。桜になって、菊様を見守り続けます。そうして時が来たらまた、ここに…菊様の世界に生まれ変わります」
 その時はどうかを見つけてくださいね。約束ですよ、と。言うことの利かない手をどうにか動かして、菊様と指切りをする。
「ええ、約束します」
「ありがとう、ございます」
 あぁ、なんだか…は少し疲れてしまったようです。ごめんなさい菊様。少し眠ります。
 そう言って目を閉じた私の頬にぱたりと雫が一つ。雨でしょうか。あんなにもよいお天気だったのに、空はとても気紛れですね。ぱたりぱたりともう二つの雫が落ちるのを感じたところで私の意識は闇に吸い込まれていった。

 絡めた小指がするりとほどけ。

「……おやすみなさい。約束は守りますからね…」

 ぱたぱたと音を立てて降りしきる雨は止まない。